●宵闇の騒動未遂
【登場人物】
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crc_0016:ムツラ
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crc_0004:アラワク
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crc_0003:チノ
カウンターに肘をついた少女の腕が、柔らかい体毛に腕が覆われた隣の女に思い切りぶつかった。
「おい、あんた。今ぶつかったぞ?」
微動だにしない女に少女のような体躯の酔っ払いがにじり寄る。カウンター越しに壜を拭いているアラワクは、嫌な絡み方をする少女に冷たい視線を振り向けた。
少女の額には小さな宝石が埋まっている。
小人種の女だった。
彼らは成長しても身体は広人種でいう子どもほどの大きさにしかならない。見かけも小さい子どもそっくりで、まるで広人種を騙すために用意されたような背格好だ。しかし、侮ってはいけない。小人種は一般に、広人種の二倍から三倍以上の寿命を持っており、大抵の場合歳上だ。
寿命が長いということは、生存競争において広人種よりも有利ということでもあった。
たとえば、樹法を使うために絶対必要な『まことの名前』を見つけるための時間が、単純に寿命で考えれば二倍から三倍もある。『まことの名前』は総当りで探さなければ見つからない法則性のない言葉だから、探す時間が長ければ長いほど見つかりやすい。時間という制約が種族の差異によって、才能という形で発露していた。
そうした種族的な違いによる覆らない差と、見た目で騙される者が時代を問わず常に一定数いるからこそ、小人種は警戒されている種族でもあった。
現にアラワクは手許こそ壜に集中してはいても、気持ちは目の前の小人種に移っている。
しかしそんなアラワクの気を知らないように、小人種の隣に座った獣人種の女は黄色い瞳を揺るがせもしない。
「あんただぞ、聞いてるのか?」
おおよそ少女とは思えない態度で相手の腕を掴んだ。
ジョッキを睨んで動かない女のほうは、そこでようやく隣を見た。
「少し黙ってちょうだい」
冷たくあしらう声音は艶を帯びているが、そこに相手への情はない。しかし元の姿勢に戻ろうとした時に、彼女は一瞬固まった。挙動が止まったのを見越していたかのように、少女がみたび声をかける。
「あたしはチノ。あんたの名前を聞いても?」
小人種の女はなぜかこの状況で名前を名乗った。獣人種のムツラはそれと同時に炎を纏った蔦がさらなる成長を経て腕を固めようとしているのを見た。カウンターの陰に隠れていて、チノが樹法を使ったことに気づけるのはムツラだけだ。
即座に周囲を確認する。カウンターに杖が立てかけられていた。
ムツラは、チノが樹法使いだと気づいた。
炎を延焼させない力は相当な使い手であることの証左だろう。いつ樹文を唱えたのか悟らせない間合いの取り方の上手さが、純粋な力の強さだけが取り柄ではないことも感じさせた。
ムツラはつい先程まで背中越しにテーブル席で話し込んでいる一団の会話に聞き耳を立てていたのを、チノに気づかれていたのだと考えた。テーブル席に座っている連中の仲間、もしくは雇われの用心棒の可能性があった。
ムツラは盗賊だ。今日の目的は、迷宮エルディカに潜った連中が手に入れた宝物である。いつも酒場や市場、広場で情報を収集している彼女は、最近解禁されたエルディカ入りを目的として各地からこの都市にやってきた連中を狙うために動いていたのだ。数日前にエルディカ入りし、今日の夕方帰還した一団の情報を手に入れた彼女はこの酒場『宵闇の華亭』で網を張って待ち構え、話を聞き出そうとしていたのだった。
上機嫌で騒いでる背後のテーブルには、武器をめいめいに携えた数人の荒くれ者たちが酒を飲んでいる。ムツラはそうして気の抜けた彼らが今日どこの宿を取るつもりなのかを聞き出して、夜のうちにエルディカで手に入れた宝物の類を全て奪い去ろうと計画していたのだ。
しかしチノに邪魔された。彼らが雇ったのであろう用心棒は、まだ何もしていないムツラを表立って排除するつもりはないらしいが、いざとなったら事を荒立てる用意があると示威したいらしい。
炎のちらつきだけが動く二人の間で、ムツラはじっと固まってチノを見た。
「あたしはムツラ。腕が当たったのはわざとじゃないよ、すまないね」
ムツラは引き時を弁えたプロだ。いま戦いになれば、後ろから襲われる可能性だってある。樹法使い相手に近距離でナイフを突き立てたところで、その後の目算が立たない。今回は情報負けしたと諦めるほかない。相手は寝込みを襲う段になってから反撃し、完全に後顧の憂いを断つことだって十分可能だったのだ。それを考えれば、慈悲深いとさえ言える。
ムツラは自分から謝って、話を終えようとした。しばらくしたら席を立って、すぐにでも酒場から離れるつもりだった。下手に家探しでも始められたら、おちおち都市内で眠ることさえままならない。すぐに立たなかったのは、なけなしの意地だった。
そしてようやく立ち上がろうとした彼女の前へ、唐突に追加のジョッキが置かれた。
「これは?」
「こちらからのサービスですよ。不要でしたか?」
ムツラが呆けた顔で、ジョッキを見ているのをアラワクは無表情で観察した。
アラワクは彼女が後ろのテーブル席の客に盗みを働くつもりであることまでは分からなかったが、カウンター席に座った二人が何やら不穏な空気を漂わせていることには気づいていた。そもそもムツラは一番安い酒を頼んでから数時間、食事もろくに頼まずに酒も飲まずにただただ座っているばかりの怪しい客だ。オーナーに目顔で合図を出したが、首を振るばかりでろくな対応は望めそうになかった。アラワク自身で対処するしかない状況で彼女ができるのは、酒を出すことだけだった。
ジョッキに注いだのは度数が高い割に飲みやすい、果実酒の一種だ。普段はジョッキで出したりはせず、小さなタンブラーで提供するたぐいの酒である。テーブルで騒いでる大柄の男でも、これを二、三杯飲めばどうなるか分かったのものではない。そんな強い酒を出す目的はもちろん、ムツラを酔わせるためだった。
面倒な客を酒場は避けることができない。それでも何とか店がやっていけているのは、用心棒を雇っているからだ。彼らは暴れた客や酔って前後不覚になった客相手に適切な対処をしてくれる。
店の裏で待機していて、普段は倉庫の管理などの雑用をこなしつつも、いざとなれば戦うことすら可能な人材。本当に面倒事が発生したら、彼らに任せてしまえばどうにでもなる。
アラワクは面倒事の種類を、暴力沙汰から泥酔客に切り替えてしまおうと画策しているのだ。
カウンターの隅で働いている彼女にとって一番嫌なのは、面倒事が『起きそう』な状況だ。起きる前では用心棒も手が出せないから、必然的に彼女自身が矢面に立つことになる。だからある程度場をコントロールすることが求められる。アラワクは会話が苦手だから、酒を出すことでしか場の空気を変えられない。
ジョッキを出されたムツラは中身がそんな思惑で出されたことも知らずに、最後に一杯くらい良いかと飲もうとした。
しかしそれを横から邪魔する者がいた。
「それ、あたしのだろ? 出す相手間違えてるんじゃないか?」
チノだ。
ムツラを細い腕で押しのけて、チノは豪快に飲み干す。
一気に頬が紅潮し、とろんとした瞳が眠たげに瞬いた。
チノはなぜジョッキを差し出されたタイミングでムツラが店を出なかったのか疑問に感じていた。アラワクがジョッキを出したのは退店を促すためだと思っていたからだ。
そもそもチノは別に後ろのテーブル席の連中に雇われているわけではなかった。店員がムツラの動きを不審に感じているのに気づいたから、少し助け舟を出してやれば酒の一杯や二杯おごってもらえるのではないか、という打算で動いていたに過ぎない。ムツラが後ろのテーブル席の連中に目をつけているのは耳を見れば十分察知できた。恐らくはスリでもやるつもりなんだろう、とチノは考えて先手を打って用心棒かのような態度を見せたというわけだ。それでムツラは素直に引き下がったし、それで話は終わりのはずだった。となれば後は店員からの奢りが待っている、と思っていた矢先のことだった。
チノはムツラがまだ出ていく素振りを見せないことに疑問を感じながら、空のジョッキのふちを舐める。
しかし出ていく素振りを見せないのは、ムツラにとっては自然なことだった。
このタイミングでジョッキを出したアラワクの思惑はともかく、チノの行動にはある程度の推測ができる。彼女は、喧嘩を売りたいのだ。ジョッキを奪い取るという直接的に暴力へ訴えかけない方法でこちらから先に手を出させて大義名分を得た上で始末したいということだろう、とムツラは考えた。その状況で下手に動くのは危険だ。何が引き金になって刃傷沙汰になるか分かったものではない。
そうしてムツラは完全に沈黙した。その横でチノは意外にも度数の高い酒に酩酊し、身体がふらつき始めた。それでも今の状況を整理しようとムツラのことを考えた。
ムツラにとって既に店員に目をつけられていることを教えた命の恩人、という見方もできるのではとチノは思いついた。それでムツラはチノに感謝していて親しみを覚えているせいで、店を出ずにまだ横に座っているのだ。きっと今日の飲み食いに関しては彼女が出してくれるに違いない、とチノは納得した。それ以外にムツラがまだ店を出ない理由を説明できない、と酔った頭で決めつける。
「意外と良い奴じゃないか〜」
チノはムツラに身体を投げ出して肩をがしがし叩いた。
「ちょっ、擦り寄らないでよ。店員さん、これどうにかしてくださいよ!」
「今お皿下げますね」
「そっちじゃなくて!」
「あ、こっちか? こっち?」
「腹さわるのはホントやめてっ!」
そうして、全員勘違いしたまま深夜までカウンターで大騒ぎした。ムツラはチノの飲み代を出しはしなかった。
Novel.725404