●黒王女の休日

 黒王女ヴェステルナ。
 双子都市ソーンの東側を治め、主に軍務に携わる、プロタ・リズマ王国の王太子の片割れである。
 美しい黒い髪と鋭い黒い瞳の美女だが、それでも彼女は成人前の少女であった。
「アルヴァルト王は晩節を汚した」と、そう言われることも少なくない。
 彼女の父であるアルヴァルト王は武断派の王であったが、名君と呼ばれていた。新しい文化文明には明るくなかったが少なくとも国を富ませていたし、プロタ・リズマの国土を(他の大国を刺激しつつも)拡大した。
 しかしながら彼は、自分の死期について無頓着だった。
 彼には息子はおらず(プロタ・リズマの法においては王位の継承に男女は関係ない)、二人の王女のみがいた。そして彼は、そのどちらも継承者に指定しなかったのだ。
 空位となった玉座をめぐり、二人の王女、すなわち黒王女ヴェステルナと白王女エストリフォは相争うことになった。
 王位継承の儀式であるソーンの地根エルディカへの探索をもって王位継承とすることが取り決められ、そして双子都市ソーンは(少なくともその時までは)二人の王女が君臨する都市と定められた。
 その渦中の人物であるヴェステルナは、久しぶりに羽根を伸ばしていた。

「いい天気だなぁ」
 長い黒髪を風にまかせて、ヴェステルナはのんきに空を見上げた。
 高い空にうっすら天枝が見える。見るものが見れば自分の場所を知る天測に使えるのだが、彼女にその心得はない。
 いつもの鉄くさい甲冑などではない。フリルとレースを使ったシャツの上にぴったりした黒い上衣を着て、やはり黒いコートの左だけ袖を通してマントのように流している。
 格好をつけているというよりも、彼女はそれを「無難な格好」だと思っているのだ。
 実際のところ、直剣を佩いた彼女の姿はそれなりに人目につき、若い娘がちらちらと振り返りもするが、彼女はそれに気付いていない。
 黒王女として軍務の一切を取り仕切り、前王派の神輿となって双子都市を治めるヴェステルナ王女の密かな楽しみが、このお忍びでの外出である。
「お、お嬢さん、見てかない?」
 広場では露店が立ち並び、賑やかな声が響いている。
 小さな木の細工物の露店でヴェステルナは足を止め、いくつかを手に取った。それらは素朴で、きっとこの店主が一つ一つ手彫りしたものなのだろう。
 指でつまめるほどに小さなクマの細工物はかわいらしく、胴体と頭が金属のばねでつながっていて、揺らすと楽しげに首を傾げた。
「ふふっ」
 ヴェスエルナは微笑む。
 彼女にとって、こういったものはむしろ新鮮だった。
 王女府には豪奢な調度品や芸術品が並んでいる。
 それらは、彼女の港を使う商人が軍船の庇護を求めて持ってくるものだったり、貴族からの贈り物だったりする。ヴェステルナはそれらを素直に受け取った。王女府がみすぼらしければ、彼女を王に推すものからも疑問の声が上がるかもしれない。清貧は美徳かもしれないが、王が貧しい身なりをしていては王に従うものたちにそれを強いることになる。それでは支持など集まらないことくらいは、彼女も知っていた。
「リフォが好きそうだな」
 ヴェステルナはそのクマの工芸品を見て、妹を思った。
 ヴェステルナは王位につきたいわけではない。もちろんクリュズら騎士たちの期待を受けているのは解る。その期待に応えることは義務であろうとも思う。
 しかし彼女があえて王として立とうと思うのは、妹であるエストリフォのためだった。
 彼女が玉座に向いているとは思えない。今もそうだ。父王の頃には遠ざけられていた文官派がエストリフォを神輿に担ぎ出している。ある程度覚悟のできていた自分でさえ、王位争いを演じることに疲れを感じるのだから、あの引っ込み思案の妹が今どんな気持ちでいるか。ヴェステルナはしばらく会えていない妹の、ちょっと控えめな笑顔を思い浮かべようとした。
 最後に見たエストリフォは、ひどくうつむいていた。
 ならば私が王になればいい。
 さっさとこの王位争いに決着をつけ、妹には自由になってほしい。
 ヴェステルナはある意味で犠牲になるつもりで、王位を目指している。
「それ、かわいいでしょ」
 人懐っこい髭面の店主に言われて、ヴェステルナは現実に引き戻された。
「あぁ」
 左手で胴を摘んで、右手で頭をはじくと、びょんびょんと揺れるクマの頭がこちらを見た。そうだ。これは妹に贈ろう。持っていってはやれないが、包んで送るくらいはできる。このクマのように、はじかれてもめげずにいられるように。
「これを貰えるか?」
「はいよ。半タレルだよ」
 半タレル。1タレルがタレル銀貨一枚で、12リル銅貨で1タレルなので、つまり銅貨6枚だ。
「……」
 ヴェステルナは値段を聞いてから、しまった、と思った。
 財布がない。
 彼女がお忍びでこうして街に出るときには、必ず重臣であり幼い頃から彼女に従っていた”じい”であるクリュズがついてきていた。財布は彼が持ってくれていたのだ。
 ところが今、ヴェステルナは彼とはぐれていた。
 西側の聖堂を通った時に人混みの中で騒ぎがあり(たいした騒ぎではなかった)、その時にうっかりはぐれてしまった。
 彼は今頃必死で彼女を探しているだろうが、ヴェステルナはかえって都合がいいとばかりに一人、街を堪能していたのである。
「弱ったな」
 ヴェステルナが困っていると、髭面の店主が目をぱちぱちした。
「すまない、財布がない」
「落としたのかい?」
「いや、そうではないんだが……本当にすまない。見事な作品なのに」
 ヴェステルナは名残惜しげに、クマの工芸品をそっと露店に戻した。その彼女を見て、店主が苦笑する。
「気に入ってくれたんなら、いいよ。あげるよ」
「しかし財布が」
「タダでいいよ。実際あんまり売れてないんだ」
「そうはいかない。仕事には必ず対価があるべきだ……」
 ヴェステルナはそう言うが、しかしクマはゆらゆらと首を揺らしながらこっちを見ている。
「……そうだ」
 彼女は手袋を外し、白い指にはまっていた銀の指輪を抜いた。
「これを代金にしてくれ」
「えぇ? これ、銀かい? もらえないよ。高すぎる」
「いいんだ」
 彼女はそれを店主に握らせ、そしてしっかりとクマを手に取った。目の高さにもう一度つまみあげて、にっこりする。
「いいものだ」

 ヴェステルナはうきうきと広場を後にした。
 コートのポケットに大事に箱に収められた(店主が壊れないようにその場で箱をこしらえてくれた)クマチャンを入れて、踊り出したい気分で自分の治める街を歩く。
 そうだそうだ。
 財布なんかなくてもどうにでもなるじゃないか。
 じいは財布を自分が持つことで、ヴェステルナがいなくならないようにしていたつもりかもしれないが、ふふん、ふふん。所詮じいも騎士の家柄の世間知らずだ。
 ヴェステルナは心軽く、双子都市ソーンを歩いた。いくつかの装飾品を渡して、いくつかのとりとめもない買い物をする。このピンク色のリボンは自分用。人前ではつけられないから寝室でこっそりつけよう。
 普段視察に出る時とは違う(彼女は視察で街に出る時にはなるべく甲冑をまとうようにしていた。武断派の騎士たちへのアピールと同時に、顔を隠すためだ)軽装での街歩きは、自分がやはり十代の少女であるということを思い出させてくれる。
 西側の港は、彼女がよく視察や閲兵に行く東側の軍港とは趣が違った。
 今日は天気も穏やかで、商船が数隻停泊している。東側の港には商船はめったに入らない。軍港として、ソーンが抱える三隻のガレオン船が停泊しているからだ。なかでも巨大な重ガレオンである”海鼠号”は、この港を動くことはない。
 一方の西側は違う。
 新航路を次々発見し、今まで半年から一年以上かけて馬車を仕立てていた外国と、ほんの数週間から数ヶ月で往復してしまえる。
 交易も外交もその速度を上げ、港は城門以上の玄関口として賑わっているのだ。
「おなかすいたな」
 ヴェステルナは、くぅ、と鳴く腹の虫をさすった。

 ”虎の鰭”亭。
 その店の奇妙な看板にはそう書かれていた。
 挑みかかる虎の後足が魚の鰭になっている。なんの魚かは、ヴェステルナには分からない。
 多分飲食店なのだろう。
 このあたりでは珍しい漆喰仕立ての白い壁に、赤い瓦が載っている。扉は青と緑に塗られていて、賑やかな港町のなかでもとびきり浮かれて楽しそうに見えた。
 まるで今日の気分のようだ。
 ヴェステルナはそう思って、カラフルなドアを押し開ける。
「すまない」
 店内はおよそ五席ほどのテーブル席とカウンター席がある、お店の大きさにしてはやや席数が少なく感じる店だった。
 二階建てで、多分上はご多分に漏れず宿になっているのだろう。
 店内の壁も漆喰で、大きな窓から入った光を反射して、どの席も明るく見える。
 しかし客は一人もいない。
 ヴェステルナは首を傾げた。営業時間外かな。
 彼女は踵の音を立てて木の床を歩くと、カウンターから覗き込んだ。
 厨房で、一人の少女が鼻歌を歌いながら鍋をかき回している。
 丸い尻尾の生えたおしりを振りながら、実に楽しそうに。頭の後ろで二つに結った銀色の髪かと思ったものは、どうやら耳であるらしい。つまり、彼女は獣人種なのだ。ウサギの。
 感覚の鋭い獣人種は、その味覚を活かしてこうして料理人になることもあるという。その鋭敏な聴覚をもってしてもヴェステルナに気付いていないのだから、きっとよほどに楽しいのだろう。
 彼女はなんとなく邪魔するのが悪い気がして、カウンターのスツールを引いて座ると、脚をぶらぶらさせながら、獣人の少女のおしりを眺めて待つことにした。
 たっぷり五分ほど待っただろうか。
 獣人の少女が調味料を取ろうとして振り返り、そしてカウンターで頬杖をつくヴェステルナに気付いて、それから飛び上がった。
「うわっ!!」
「やぁ」
「だ、誰だ! ……ってお客さん……か?」
「そうだ」
「どのくらい待って……ました?」
「君の歌を三曲聞いた」
「そうかー……」
 獣人の少女は汗をかく。つり目がちのくりくりと大きな目は、やはりウサギのようだった。
「すまないが、何か食べさせてもらえないかな」
「あぁ……お客さん、初めてだよな? わたしはルティン」
「ルティン」
「そう。まだスープが仕込み中だけど……他のもので良ければ」
「構わない」
「そりゃ残念」
「どうして?」
「スープ、うまいんだ」
 ルティンはにかっと笑って、手際よく調理を始める。
「イワシのいいのがあるんだ。焼こうと思ってたけど、まだ新鮮だからマリネにしよう」
「イワシってどんな魚だ?」
「これだよ、これ。看板の虎の魚」
「へぇ」
 きらきらしたイワシを持ち上げて見せると、さっさとさばきはじめる。ヴェステルナは普段見ないその手際を、二人きりの店内でぼんやり見守った。
 いつも食べているものもこうして作られているのだろう。
 ほんの数分後、ヴェステルナの前には炙って表面をカリカリにしたパンと、オリーブ油と酢を使ったイワシのマリネが並んでいた。
「水? ワイン?」
「おみず」
「はいよ」
 陶器のコップに水を出してもらって、ミントやクレソンといった香草と一緒に食べる。
「おいしい」
「だろー? イワシは疲労回復に効果があるぞ。ミントは目にいいし、クレソンは胃腸を助けるんだ。そんでね、そんでね……」
「おいしい」
 にこにこと喋るルティンをよそに、ヴェステルナはもくもくと料理を平らげた。
「あんた、名前は?」
「ヴェステルナだ」
「フーン」
 ルティンは水のおかわりを注いでくれた。
「王女様と同じ名前だな」
「……よく言われる」
 ヴェステルナはしまった、と思う。しかしどうやら気づかれなかったようだ。彼女はほっと胸をなでおろした。
 ルティンとの会話は楽しくて、無口なヴェステルナもついいろいろ喋ってしまう。
「そろそろ行くよ」
「そっか。今度は夜に来るといい。スープがある。ちょっと辛いやつでな、いろいろ入ってて……パスタと絡めたりしてもうまいんだ」
「楽しみだ」
 なんだか話すほどにボロが出そうで、ヴェステルナは立ち上がった。
「ありがとう。ごちそうさま」
 彼女は腰から長剣を外すと、それをカウンターに置いた。ルティンが飛び上がる。
「うわっ! 何するつもりだ! ごごご、強盗か?!」
「え……? いや、違う。代金だ」
「はぁ? 金ないのか? 銀貨だよ。あー。料理はいいとこ半タレルだから銅貨でいいよ。酒で稼ぐんだ、うちは……。リル銅貨。ないのか?」
「……ないんだ。あー……その、財布がなくて」
「さっき広場で買い物してきたって言ってたろ。スられたのか?」
「違う。広場でもこうして、指輪とか……首飾りとかを……」
「幸福の王子かよ」
 ルティンは顔をしかめる。
「刃物にゃ詳しくないけど、剣なんて安くても銀貨で二十枚くらいだろ。多すぎるよ。ダメだダメだ!」
「でも……」
 ほかにないし……と、ヴェステルナが言う。ヴェステルナにとっては、いま佩いている剣は外出用で、たしかにそこそこいいものではあるが料理のおいしさとルティンとの時間に支払うのなら惜しくは感じない。
 ルティンは腕組みし、垂らした耳をぴょこぴょこと動かした。
 タダにしてやろうとも思う。店長もいないし、まかないで一匹食べちゃいました、と、ごまかしても通るだろう。この奇妙な黒髪の少女の無口ながらかみしめて食べていたその姿に、ルティンは好感も持っている。悪いやつではなさそうだ。どこかのお嬢様かもしれない。さすがに本物の王女さまってことはないだろうけど……貴族様が王女様にあやかって名前をつけるなんてのは珍しくないし。
「わかったよ」
「よかった」
「違う。これは預かってやる。次来た時にはお財布もって来い。今日の分と合わせて請求して、剣は返してやるよ」
 ヴェステルナは嬉しそうに頷いた。
「きっと来る。いつになるか分からないが……夜に来るよ」
「あぁ」
 ヴェステルナは剣を渡し、フンスと鼻を鳴らした。こんなにすてきな食事にありつけたのだ。できることなら、妹と一緒に来たい。きっと喜ぶだろう。
「いつになるかわからないが」
 彼女は獣人の少女に見送られて、ゆったりと青と緑のドアから出ていった。

「やれやれ。へんなやつ!」
 ルティンは皿を洗うために店に戻り、なんとなく、さっきの客が置いていった剣を手に取る。
 飾りの少ない拵えだが、よく見ると繊細なレリーフが入っている。
「これ、高いんじゃないか?」
 ルティンは元々は船乗りで、南方諸島からやってきた移民である。こっちの装飾については詳しくはない。
 ぐっ、と力を込めて、剣を鞘から抜く。よく磨き上げられた刃は美しく、いかにも切れそうだ。
「あいつが来るまででかい魚さばく時にでも使うかな……」
 一人でくすくす笑う。魚さばくのに使った、っていったら、あの無口な少女はどんな顔をするだろうか。
 ふと、鞘に隠れていた刀身の一部に目がいって、ルティンは顔を近づけてそれを見た。
 それから驚いて、本日三度目に飛び上がる。
 そこにあったのは、黒王女の黒百合紋。本人しか帯びることを許されない紋だ。
 つまり、これを帯びた、黒髪黒衣の少女ヴェステルナとは……。
「本物じゃないか!!」
 ルティンは店を飛び出した。

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