●湯けむりの鍵

 白い煙の向こうをすかして、シェルクは目を見張った。
 やけに声が響く。
 空気は湿っぽくて温かい。彼女には信じがたい光景だった。
「これ、ぜんぶ風呂か?」
「そうだよ?」
 シェルクが呆然と呟くと、隣を歩く小さなアヒルの木彫りを持ったエリチがきょとんと見上げて首を傾げた。
「お湯を? こんなに沸かしているのか?」
「ううん。ええっと、アルンストン先生が言ってた……地下の水脈がエルディカの樹力で暖められてるんだって。湧き出してるの。このお湯」
「全部?」
「ぜんぶよ」
 シェルクはもう一度嘆息し、手ぬぐいを持った手をだらんと下げた。
「すごいな……」

 かぽーん。
 少し間の抜けた、桶かなにかが打ち合う音が、妙に響いていた。
 双子都市ソーンの名所の一つでもあるこの公衆大浴場“ラ・メル・ソーン”は、およそ百人以上が同時にゆったりとくつろぐことができるほどの大きさで、床は色とりどりのタイル張り。
 浴槽はものすごく大きなものと、少し趣向を変えた比較的小さいもの(と、言ってもシェルクにはどれも大きすぎるように感じられた)がいくつか。
 湯けむりは花の香りがして、どこかで香を焚いているようだ。
 昼間だと言うのにまるで広場かと思うほどの人出で、シェルクはどうしたものかと目をぱちぱちした。
「大きいお風呂は初めて?」
 手ぬぐいで大きな胸の前を押さえながら、シェルクが時々世話になる酒場“たぬき屋”の女主人であるマリアンヌが微笑んだ。
 彼女を手伝ってある男から借金を取り立てて来たシェルクは、お礼のおまけに、と、この公衆浴場に誘われたのだ。
 支払っていた料金は、一人ターレル銀貨一枚(子供は無料)。決して安い値段ではない、ということは、金銭感覚に疎いシェルクもある程度理解できる。
「え、えぇ……」
 しかしそれ以上に、シェルクはこの光景に圧倒された。
 いいにおいのする湯気の中で、たくさんの女性が湯に浸かり、髪を洗ったりおしゃべりを楽しんだりしている。
 シェルクの育ったウェスティン領は、辺境もいいところだった。湯浴み自体はするが、沸かしたお湯を桶にためて身体を洗うもので、あんなふうに肩まで浸かることはない。シェルクはもっぱら近くの滝で泳ぐほうが好きだった。
 双子都市にやって来てから驚くことばかりだが、これは格別のものだ。
「えぇー? シェルクちゃん知らないの?」
 おっくれてるー、と言うエリチを、彼女の母親であるマリアンヌがたしなめる。
「これ。エリチ。失礼でしょ」
「いえ……事実なので……」
「まぁ」
「あの、この街の人はしょっちゅうここに……?」
「裕福なひとはね。うちはそうでもないけど、でも週に一回くらいは来てるの。お友達もいるし。女性用は今の時間がピーク。男性用は今は空いてるから……ふふ。きっとヴォルさんたち、羽根を伸ばしてますわね」
「あのもじゃ毛はいいんですけど、その……どうすれば……」
 シェルクは赤面して、それから慌ててマリアンヌがそうしていたように手ぬぐいで胸を隠した。
「あぁ。そうね。まずはあっちの洗い場で身体を流すの。埃とか、汗とか……エリチ! まだよ! 体を洗ってから!」
 マリアンヌは前に立って、まずは洗い場に案内してくれる。
 腰の高さくらいに水路のようなものが流れていて、そばには手桶が備え付けられていた。
「これでお湯をすくってかぶって、身体を流してくださいね」
「はぁ……。え?! 流しちゃうんですか? 勿体無い!」
「え? 流さないの?!」
「だって勿体無いじゃないですか。薪とか……あぁ……」
 エリチにびっくりされて、シェルクはさっきの彼女の言葉を思い出す。湯は湧き出しているのだ。
「樹力はすごいな……」
「でしょ。わたしね、おおきくなったら樹法使いになるんだ」
「なら、もっとお勉強なさいな」
 にかっと笑うエリチに、マリアンヌがお湯をぶっかけた。

 大きな浴槽のお湯は適度に温かい。
 シェルクは生まれて初めて、お湯に肩まで浸かって天井を見上げた。
 天井は明り取りの大きな窓が開いていて、貴重な板ガラスをふんだんに使ったステンドグラスが施されている。
「あれ……雪降ったら大変だな……」
 シェルクは故郷の冬を思い出して、ぼんやりと呟いた。故郷にこんなものがあったら、断然過ごしやすかったろうに。ウェスティン家のお嬢様でござい、などと言っても、所詮田舎の地方豪族にすぎないのだ。その地位を守るため窮々とする父の姿が浮かんで、シェルクは鼻を鳴らした。
 しかしそんな不愉快な気分も、温かいお湯の中に溶けていくかのようだ。
「アメも来ればよかったのにねー」
「そうね」
 エリチは口でがあがあと鳴き真似をしながら、彼女の脇であひるを泳がせて遊んでいる。
 マリアンヌは向こうでおしゃべりの花を咲かせているので、シェルクはつまるところ、子守に使われているようなものだ。しかしただごちそうになるのでは気が引ける。このくらいのほうが気楽にお風呂なるものを楽しめるというものだ。
 男性用のお風呂はどうなっているんだろう。興味はあるが、きっと入ると怒られるのだろう。まぁ、あとで聞いてみよう。
 シェルクがそんなことをぼんやり考えていると、二人組の女性が彼女の前を横切って、浴槽の奥に歩いていった。
 マリアンヌほどではないが豊かな胸の持ち主で、シェルクはなんとなく自分と比べる。
 二人は湯を吐き出している虎の顔のレリーフのあたりまで行くと、手ぬぐいを持ったまま湯船に浸かり、何事か話している。
 あの虎のあたりの湯は熱いから上級者向け、と、エリチが言っていた。実際どのくらい熱いのだろう。私はもう上級者だからな。行ってもいいかな。シェルクはフンスと鼻を鳴らした。
 件の二人は、何か声を潜めて話し合っている。
 他の客がみな明るく楽しげな中、その様子はシェルクにはいささか違和感があった。
 頭に載せた手ぬぐいを少しおろして視線を隠し、その様子を見守る。
 勘働きというやつか。
 二人は湯の中の手ぬぐいから小さなものを取り出し虎の口の中に突っ込むと、湯を楽しんだとは思えないあわただしさで浴槽から立ち上がり、出ていった。
「……」
「どこいくの?」
「ちょっと……」
「そっち熱いよ」
 シェルクは湯に浸かったまま、なかば泳ぐように虎のレリーフまで行くと(確かに熱かった)、手を虎の口の中に突っ込んだ。
「……?」
 指が湯の流れの中に硬いものをみつける。うまく引っかかるように隠してあったそれを、シェルクはつまみだした。
「なぁにそれ」
「さぁ……」
 鍵だった。
 小さな真鍮色の鍵は、持ち手のところに赤い宝石がはめ込まれている。それ以外の装飾はなく、文字も特には書かれていなかった。宝石はステンドグラスから差し込む光できらめいた。
「きれい」
 エリチが嘆息する。
 シェルクは鍵を湯の中に沈めて、水面を透かしてそれをじっと見つめた。なんの鍵だろう。あの二人は何者だろうか。あるいは……。
「これは事件かもしれない」
 彼女はエリチと顔を見合わせて笑った。

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