●双子都市の“迷宮”エルディカ

 青空は、見えない。
 彼は鋼の兜の下でため息を付いた。左手に掲げる松明の炎はほとんど揺れない。風がないのだ。重苦しいよどんだ空気だけが、そこにある。
 さっきまではどこかから聞こえていた“同業者”たちの声はいつのまにか散り散りになってしまい、聞こえなくなった。
 今は彼と彼の仲間三人の吐息だけだ。もっともそのうち一人は夜目が効く獣人なので、少し前を先行して警戒しているから、彼の後ろには二人の樹法使いがいるだけ。
「迷宮って感じになってきましたね」
 彼の後ろで脳天気に言うのは、「分け前は半分でいいから連れて行ってくれ」と泣き落としてきた樹法使いの男だ。
「ここが、エルディカ……双子都市ソーンの迷宮ですか」
「迷宮ってのは俗称だ」
 彼は返事をしてやった。沈黙に飽きたからだ。かれこれ四時間が経とうとしている。
 その間、目を引くものは特にはなかった。ただざらざらとした砂鉄のような壁と天井が続くだけ。
 多分このうらなり瓢箪もそう思って、いまさらこんなわかりきった(彼にとっては新鮮なのだろうが)話を振ってきているのだろう。
 彼は五年前にこの迷宮に挑戦した自分を思い出した。
「源樹の根についてはお前さんのほうが詳しいだろうが……世界中を巡るっていう源樹の地脈のなかでもでかい地根は、こうして大昔の樹人だかって連中の遺跡になっている。このエルディカは、世界で一番深くて世界で一番有名な根だって言うな」
「はい。僕も本ではそう読んでます」
「じゃあいちいち聞くな」
「百聞は一見に如かず、と言いますから……やはり驚きです。この壁材、土でも石でも植物でもない」
「きょろきょろするほどのものはないだろう」
 彼は苦笑した。
「まだ、な」

 双子都市の地下にある”迷宮”エルディカ。彼らが歩いているのは、そのまだごく上層である。
 源樹の根には樹力にまつわるさまざまな効果があるが、今はそれはいい。
 必要なのは源樹の根の大きなものが古代の遺跡になっていて、さまざまな樹力を持った樹法具や目もくらむような貴金属や不思議な道具が眠っている、彼ら冒険者にとってはおあつらえ向きの“迷宮”であるということだ。
 ましてこの双子都市ソーンの迷宮は、通常誰にも(国家に登録した一部のノードスハンターを除いては)開放されていない。
 前に開放されたのは五年も前だ。
 おそらく世界が始まってからずっとそこにあるこの“迷宮”には、まだまだ掘り尽くせないほどの神秘と未知が眠っている。
 うまく持ち帰ることができれば、ものによっては一生遊んで暮らせるだろう。

「なんで今年開放したのかしら」
 樹法使いの男の隣を歩いていた、若い女が会話に入る。彼女は腕のいい治癒の樹法使いで、長衣に刺繍された茨の模様は、この街の源樹教会の一員である証だ。
「あれでしょう。王女様」
「空位のままもう十年だったかしら」
「えぇ。流石にレゴスメントやオルオラが黙ってはいませんよ。オルオラは凍らない港を欲しがってますし……」
「黒王女で決まりでしょ。教会はエストリフォ様を推してるけど、器が違うわよ」
「いやぁ、白王女殿下に失脚されるとせっかくできた学校が勿体無いです」
「ふん……こちとら庶民には関わりのないこった」
 彼は後ろで床屋政談を始めた二人に鼻を鳴らした。
 壁に白墨で印がついていて、その側に一体の甲冑が転がっている。彼が着ているものよりもデザインが古い。騎士甲冑だ。右の脇に槍掛けがある。馬もいないのに。
「そら」
 彼は振り向くと、右手の剣でそれを後ろの二人に指した。
「もっと現実的なもんだぜ」
「え……甲冑?」
「中身もある」
 彼が剣でつつくと、兜がごろりと落ちる。面頬が開いて、中から落ち窪んだ眼窩が、光もなく彼らを見た。
「うわっ!」
「……死んでるの?」
 男が驚いて後ずさり、女は気味悪げに身をかがめた。
「死んでる。幸いなことにな」
 おそらく五年前の挑戦者だろう。騎士甲冑に紋章はない。わざわざ騎士甲冑なんかでこんな迷宮くんだりまでやってきた間抜けだ。何と戦ったのだろうか。そいつはまだこのあたりにいるのか?
 彼は死体をごろりと仰向けにひっくり返した。
「な、なにやってるんですかぁ……」
「調べてるんだよ。ダズはそこまでやらないからな」
 甲冑の胸のところが大きく引き裂かれている。古風な騎士甲冑には亀裂が走り、焼けただれて見えた。奇妙だ。彼は訝しんだ。
「祈らないのか?」
 ひとしきり調べ終わって、彼は教会女に聞いた。彼女は首をふって応じる。
「死んだ魂は源樹に帰る。源樹で死んだものに祈りはいらない」
「フゥン」
「お金もね」
 彼女は死体の側に落ちていた袋を取り上げる。乾いて固くなった袋の中には、ターレル銀貨が数枚入っていた。甲冑から察する死者の身分からすると、あまりにも少ない副葬品だった。
「い、いいんですかぁ?」
「源樹にお金は持っていけないもの。身元不明の死人の持ち物は、教会の運営費になるのよ」
 知らなかった? と彼女は白い顔で笑った。
 彼女なりに空元気を出そうとしているのだろう。つまりこの死体は、彼らのほんの少し未来の姿かもしれないのだ。

「遅れてるぞ!」
 前のほうの闇から声が聞こえて、先行していた獣人の相棒がうんざりした顔をのぞかせる。
 彼らが道草を食っているのに気付いて戻ってきたのだ。
「悪い。死体を調べてた」
「罰当たりな」
「そうでもないらしいぜ……」
 孤独と退屈は彼ら以上だろうに。悪いことをした。ここらで少し小休止しようか、と、彼が考えたその時だった。
「――!!」
 獣人が奇妙な叫びを上げる。おそらく彼女の国の言葉だったのだろう。だが、なんと言ったのか。それを尋ねることは今はできそうにない。
 T字路になっていた脇から音もなく現れた何者かが、盾で彼女を殴り飛ばしたのだ。
 一行がさっと緊張する。
 彼は兜の面頬を下ろし、松明を持ったまま駆けた。
「……なんだ、こいつは……」
 松明を投げ捨てて、その明かりを頼りに剣を構える。両手持ちで肉厚の剣は決闘用ではなく、一振りで長く戦わなければならない冒険者のための剣だ。だがその愛剣も、3ミル弱(およそ2メートル)に及ぼうかという巨人の前にあっては、まるで棒きれに思えた。
 迷宮は単なる、古代の宝箱などではない。
 樹人たちが去った後も動き続ける守護者がいる。あるいは千五百年の間に入り、そして死んだ冒険者たちの死体が、樹力の影響で偽りの生命力を得て動き続けていることもある。罠。怪物。
 それらについて、彼は五年前に一度見ていた。このエルディカから小便を漏らしながら逃げたのも、今では思い出だ。そのころの自分とは比べ物にならないほど強くなっている、と思う。
 その彼が五年間で積み上げた経験が警鐘を鳴らす。
 こいつは違う。
 獣人を殴り飛ばしたのは、黒い鋼の騎士甲冑だった。男か女かはわからない。そして多分意味などない。
 ぎしぃ、とそいつは彼の方を見た。
 兜の中に顔はない。目もない。あるのはただ、燃える青い炎、
 ノードス。
 樹力の強いところに発生するこの生命の天敵を地上で見ることはそう多くはない。しかし、ここは根の中なのだ。樹力のもっとも強い場所だ。
 この黒い肌と青い炎は、紛れもなくノードスだ。だがこいつはなんだ。騎士甲冑の様式は新帝国暦で八百年台のものだろう。あちこち亀裂や脱落があるが、そこをわずかに透ける黒い茨のような何かがそれを補修している。
 さきほど相棒を突き飛ばした盾は巨大だが、それはいい。
 問題は右腕にあたる部分が握った炎の塊だ。剣のようなそれは、闇の中で青白く輝いた。触れてはいけない。本能的にそう感じる。
 教会の女が獣人を助け起こすのを横目で見る。さっきの死体を殺したのもこいつだったのかもしれない。
 倒せるとは思えない。さっき通り過ぎた横道に逃げ込もう。あそこは細いからこいつは入ってこれないだろう。そのためには獣人が走れるまで回復するのを待たなければならない。傷はそう深くはない。打ち身に見える。よかった。ノードスの炎で焼かれていたら、いまごろこの世にはいなかった。ノードスに生命力を吸い尽くされ、消える。だが打ち身なら、教会女の樹法で癒せるはずだ。
 それまで彼は、このノードスを引きつけ、生き延びなければならない。
 彼はスタンスを広く取って、剣を構えた……。

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