●光たちのさざめき

寮内に部外者を連れ込んだことで謹慎中の身であるファルは周りから勘違いされたりしつつ、落ち込んでいた。
そんな時同郷出身であるロックからとある提案を受けることに。一方、同じ学校の友人達も慰めてくれて……

【登場人物】
ファル・ワン・エンワン
エルルカ
リーズ
ルー
エストリフォ
マトリ
ロック・トライボー
ファコン・ソルフィネア
フィアマ・ソルフィネア
アリス
ルイス・キャロル
ミニジン



 天井が高く広々とした廊下はいつも生徒たちで賑やかだが、今日はいつにもまして大勢いた。人混みは壁の掲示板に固まっている。中心では一人の女の子――ファル・ワン・エンワンが呆然と立ち尽くしており、周りの友人たちは気遣わしげに無言を保つ者が半分、もう半分はとりあえず声をかけている。
「まあ気にすることないって! 外で必要なものあったらエルルカが買ってきてあげるから」
 ファルの肩に手を置いて本人以上に大きなため息をついたエルルカは、眉尻を下げつつも笑みを絶やさなかった。
「学院は安全だからむしろ良かったかもしれませんよ。あんなことがあったんですし……」
 フサフサの耳が分かりやすくしょげたルーは、少しファルから離れたところでぽつりと慰めの一言を放った。しかしそれはファルにとってはむしろ逆効果だったようだ。
 ファルは目頭を抑え、眉間にしわを寄せた。何を言おうかと迷っている態度だったが、それを見た級友たちは泣きそうに見えたのか矢継ぎ早に話しかけてくる。
 リーズが上目遣いでファルの顔を覗き込み、
「人に言えないことなら黙っているのも一つの手なのです。落ち着くまで部屋にいましょう」
 と言いマトリは、
「もしまた来たらあたしがこれでシメてやるから安心しろ」
 と大太刀の鞘をなでた。
 しかしファルは俯いたまま首を振るばかりだった。
「別にそんな話じゃないの。私は別に変なこともされてないし、変なこともしてない。単にちょっと間が悪かったと言うか」
「分かる分かる、分かってる。だいじょーぶ! 気にしないでっ、ね?」
 全然分かってなさそうなエルルカが張り紙を軽く一瞥して、何度もうなずいた。
 ――以下の者を十日間の外出禁止及び学内奉仕活動処分とする。なお、これは仮措置であり、本処分は保留とする。
 後半の文言は次やったら退学処分だから覚悟しておけよ、の意であり学内奉仕活動というのは寮の外壁補修の手伝いである。
 この張り紙のなかにはこの処分に至ったファルの罪がどのようなものだったのか、というのは一切書かれていない。学院はそれをこの掲示板に張り出すには少し危険すぎる、と判断したのかもしれなかった。それがどのような種類の危険性であれ、学院は生徒を守りたかったのだろう。しかしそうした配慮が隠し事に向いているかどうかは別問題だった。
 学院の生徒たちは予想以上に関心事に対する興味が強かったし、学院は隠蔽を決断するのが遅かった。
 数日前にファルの住む寮で不審者を確保したという噂と、ファルがそれを止めようとしたこと、不審者が男だったということが噂の不均質なフィルターを通して周囲へ広まった結果、様々な憶測を生むことになってしまったのだ。
 曰く、
「ファルは遠方からの追っ手に殺されかけた」「逆にファルは男を殺そうと部屋に連れ込んでいた」「外の恋人と致そうとしていた」「生身のように見えるゴーレムを連れ来ていた」だのと色んな噂が飛び交っていた。
 しかし真実はどれも違う。単に同郷のよしみで世話をしていただけだ。それが女子寮での連れ込みという時点でかなり問題だったのだが、ファルとしては良いことをしているのだから説明すれば許されるだろうと軽く考えていた。しかし学院側は変な問題が起きても困るということで、男をつまみ出してしまった。
 そして今の状況だ。
 変な勘違いで慰められる自分が居心地が悪くて仕方ない。それにつまみ出されたロック・トライボーがどうなったか気になってしょうがない。もし犯罪者扱いされて投獄でもされていたらと思うとゾッとした。
 そうした不安が頭の中で渦巻いているのであって、自分の死の危険や報われなかった恋心やらで傷心しているわけではないと伝えようと何とか顔を上げる。
 パッとまず一人の生徒と目が合った。
「あー、えっと」
 口を開いたファルは何とか説明しようとする。しかしその時またもや心配そうな顔で背を撫でるエルルカが何かを言おうとする。
 それを制したのはファルではなかった。
「す、少し話を聞いてみましょうよ」
 よく通る声。だがあまり自信のあるような態度ではない。胸の前で手を握りしめて、じっとファルを伺っている。
 この都市にたった二人しかいない王女の一人、エストリフォだった。

 **

「おーい、腰痛めるからその持ち方やめろ!」
「え?」
 ロック・トライボーは先輩が暗がりをランプ片手に近づいてくるのを見て、丸太をおろした。
「持つときは肩に乗せんだよ、横に抱えてたらぐねっとなるだろうが!」
「ぐね……?」
 いいから言ったとおりにしろ、と言われたロックは丸太を担ぎなおす。確かに肩で支えたほうが楽なことに気づいた。
 洞窟内にいくつも吊り下げられた明かりを目印に、ロックはせっせと丸太を運ぶ。
 地根の迷宮、エルディカ内での日雇い業務だった。
 エルディカは一般にも開放されており、誰でも探索可能な迷宮だ。最近ではそれが目当ての冒険者が集まってさえいる。かくいうロックもその一人だったが、今は冒険することなく、土木工事に携わっている。
 何しろ資金が足りないのだ。
 つい先日まで優しい同郷の知り合いであるファルが寝る場所を提供してくれていたが、もう追い出されてしまった。幸いにも官憲に突き出されることはなかったが、いきなり宿無しは厳しい。
 何とかならないかと死を覚悟してエルディカ探索を決意したところで、この仕事に巡り合ったのだ。
 迷宮表層の整備だ。
 中ほどから深層は未だに全容すら明らかになっていないエルディカ迷宮だが、表層はかなり探索が進んでいてほとんど財宝などはない。そうした区画をある程度整備し歩きやすくすることで、迷宮探索をやりやすくしようというのが工事の目的だ。
 整備の発注元はソーンの王女府であり、噂では王位継承を狙ったヴェステルナの一手だと言われているが、実際のところは分からない。ロックの先輩などは東征の終わりとともにあぶれた軍人の仕事先の受け皿じゃないかと言っていたが、先輩を含めてロックは現場で働く者たちに東征経験がある人を知らないから噂の域を出ないだろうと踏んでいる。
 どのみちロックにはあまり関係がなく、とにかく働いて金を貯めることだけが目下の目標だった。宿と飯つきで身体を動かす仕事というのは今のロックが求めているちょうどいい仕事だ。それもあってロックは熱心に働いていた。
 迷宮にはほんの少し先も松明なしでは見通せないほどに暗い。そのうえ地面は岩がごつごつとしており、ところどころ泥濘んだ部分は不安定だ。そうした迷宮の入り口そばに足場や明かりを設置し、救護室なども建てて、迷宮の間口を広げるのが目的だ。
 ロックは足場を組むために必要な丸太を担いでまだ岩肌がむき出しの迷宮をひたすら歩いていく。明かりは最低限のものしかまだ取り付けられておらず、ぼんやりと照らされている部分と暗闇の部分が斑になっていた。歴戦の英雄を夢見るロックとしてはこの程度の困難で挫折する訳にはいかない。一回り以上歳上の男たちとともに作業をこなしていく。
 しばらく往復していると、作業の脇を冒険者の一団が横切っていった。鎧を着て、剣を腰に佩いた集団には物々しい雰囲気が漂っている。みな一通り感謝の言葉をかけてくれる。しかし緊張感漂う集団は気もそぞろなのか、すぐにロックたちを追い越して姿を消した。
 そうした一団はロックが仕事をしているうちに何組も見かけることになった。一様に死の危険を覚悟した態度で先へ進んでいくのがロックには分かった。鎧や剣、杖が擦れる音とブーツが岩を踏みしめる音が迷宮に響く。
 ロックは幾人もの冒険者を横目に、いつかあちら側へ行きたいという思いを秘めて作業する。丸太を剣に持ち替えて、いつの日か戦いに赴きたい。
「おい、休憩だ。今やってる作業が終わり次第、上へ戻れ」
 入口の方から先輩の声が聞こえた。昼食の時間だ。
「ういっす!」
 ロックは向こうへ届くように大声を張り上げた。額の汗を拭って今担いでいる分の丸太を急いで運び、昼食の下へ駆けつける。食事も給料分から出るので買いに行く必要はない。外へ出ると資材置き場の近くに弁当屋の包みが人数分積まれており、みんな一つずつ受け取っているところだった。ロックも後ろに並んで飲み物と一緒に受け取る。
 各々てきとうな場所へ座り込んで、少ない休憩時間を無駄にすまいと飯をかきこんでいた。ロックも早速包みを開いた。肉を挟んだパンが何個か入っている。硬いパンにかぶりつき、パサパサした肉を頬張った。疲れた体に染み入る。肉の塩辛い汁が噛みしめるほどに染みていく。
 他の作業員もみんなてきとうに座っている。ベテランとして指揮を取っている男たちは車座になって雑談をしているようだった。他にも元から知り合いとして入ってきている人たちは集まって食べている。まだ日の浅いロックは一人で食べているが、他にも何人かは一人で黙々と食事をしていた。
 半分ほど食べ終えて落ち着いたロックはなんとなく辺りを見渡してみた。向こうの方にはオーリエル学院の建物が見える。反対側には資材置き場と雑木林がある。迷宮付近はあまり建物がないため、こうして木々が生える余地があるのだ。
 雑草も抜かれておらず虫も多く飛び交っている林は都市のなかであまり見られないものだからどことなく輝いて見える。葉が大きく広がっている木々が多く、石の間もほとんどが雑草のため遠目から見ると緑一色だ。ときどき、ロックたちに向けて反射光が差し込んでくる。
 じっと見つめるロックは、どこかでこれを見たことがあると考えるが、どこで見たかは思い出せなかった。気のせいだと思い直してパンを頬張った。
 だがロックの見ていた様子を不思議に思ったのか先輩の一人が近づいてきて、ロックの隣にどかりと座った。無言でお茶の筒を差し出してくる。
「何見てるんだ?」
 ロックはお茶を断りつつ、
「あれ、なんだろーと思って」
「光ってるヤツのことか?」
 ロックが曖昧に頷く。よく考えてみれば、雑木林はときどき光っている。もしかすると反射光ではないのかもしれない。そもそもロックは林が自照しているなんて考えもしなかった。先輩は何を言っているのだろう――と疑問を感じたところでようやくロックは合点がいった。
 あれは虫だ。
 ロックの故郷には光る虫がいたのだ。ソーンでは見かけないからてっきりいないものだと思っていた。しかし今こうして光っているのは、きっと故郷の虫と同じものだ。故郷に居たときはあまり気にしたことがなかったが、今こうして見ると懐かしい。林の色に似た緑色の光は落ち着いた気分になれた。
 もしこれを同郷のファルに見せられたらどんなに良いだろうか。
 だがロックは最近ファルのいる寮を追い出されたばかりだ。もしかすると迷惑になるかもしれない。自分が近づくだけでファルにとっては邪魔かもしれない。不安が頭をもたげ、自分の思いつきが裏目に出る想像がよぎった。
 そんな不穏な想像があってもなお、虫は雑木林でちかちかと光っている。夜になればもっと綺麗なはずだ。
 ――やっぱりファルに見せてあげたい。
 暗い想像の中でも変わらず光る虫たちをロックは見る。故郷の森でもきっと変わらず光っているだろうと思いながら。

 **

 エルルカたちはファルから謹慎問題の本当の事情を聞かされた。なぜ落ち込み気味なのか、男は誰だったのか等々。
 いま、ファルは自室で差し入れの授業ノートを写しているところで、エルルカたちは寮の共用スペースで相談をしているところだった。ファルがノートを写しているのは、反省文に九人の先生からサインを貰わなければ提出できなかったためいくつかの講義を欠席したからだ。学業の本分を思い出させるための反省文だろうに本末転倒である。
 そうしてファルが現実から一回遠ざかるのに丁度いい作業をしている間、エルルカたちは丸いテーブルに集まって相談をしていた。
「でも、やっぱりファルはさ」
 エルルカが声を潜めて集まった面々にだけ聞こえるよう話をする。しかしルーがエルルカを遮ってかぶりを振った。
「まーた恋だの何だの言うんでしょう? ちょっと偏ってますよ」
 リーズが床につかない足をぶらぶらさせてうなずいた。
「その通りなのです。ちょっとは聞いた話を信用するべきです」
 エルルカが慌てて手を振り、
「いやいやっ、別にそんなつもりはないって! 単にちょっと、ね……?」
 ルーとリーズはつける薬はない、と言わんばかりに目を合わせてため息をついた。
 そこへ何も考えてない顔をしたファコン・ソルフィネアとフィアマ・ソルフィネアがやってくる。フィアマは兄から貰ったのであろう串焼きを頬張りながら歩いており、テーブルに身を乗り出して弁明するエルルカと目が合うと面白いものを見つけたと言わんばかりに近づいてきた。もちろん兄のほうも。
「なんかあったのか?」
 ファコンは傲岸不遜な態度で眉をひそめ、エルルカを見下ろす。ちょうどいい援軍が来たと言わんばかりに顔を輝かせたエルルカは事の経緯を話した。二人はふむふむと頷きながら最後まで話を聞いた。フィアマは早速楽しげににんまりと笑い、
「じゃあ元気づけてあげるしかないですわねっ!」
 と手を振り上げた。エルルカは威勢の良いやつが引っかかったとルーたちにジェスチャーで示し、満面の笑みを返す。
「そうそう、それいいよね。やっぱり今のファルに必要なのは元気! 友達が浮かない顔してるとなんかイヤじゃん?」
「それはエルルカさんの都合では……?」
 リーズのぼやきも何のその。エルルカは腕をあげてファルの元気再生計画をぶちあげるのだった。
 そうしてエルルカ一行はファルの部屋の前まで移動した。
 一人目はエルルカ。自信ありげに周囲を一通り見渡し、期待をこめた熱視線を送るフィアマにウィンク。
「ここで一発キメるからね」
「おお!」
 エルルカはみなの視線を浴びつつノックしてファルの部屋へ入る。ここからはファルとエルルカの一騎打ちである。扉の前でみな耳をそばだてて結果を待った。単身ファルの部屋へ乗り込んだエルルカがどうなっているかは外からは分からない。しばらくして、ゆっくりと扉が開きうなだれたエルルカが出てきた。
 結果は聞くまでもない。
「新しく男を捕まえるための話を二、三してみたけど全く引っかからなかったよ……」
「そりゃあそうですよ」
 ルーが呆れたとでも言いたげに顔をしかめた。
「じゃあ二番手、フィアマ行きますわ!」
 みなが制止する間もなく、今度はフィアマが突っ込んでいった。それも長くは保たず、すぐに出てくる。
「渾身の大道芸、完全に失敗しましたわ……」
 どうやら最近広場で見かけた大道芸をやってみたらしい。そりゃあ失敗するよなとみんなが思ったところを、さっきまで特に何もする気がなさそうだったファコンが前へ出る。
「リベンジだ。妹の尻は兄が拭うもんだ」
 ネクタイを締め直して襟を正す。妹が握りしめていた大きめの球を何個も受け取って扉を開けた。
 みなが固唾をのんで扉の前で見守る。あんなに自信満々だったのだ。さぞかし完璧な芸が行われているのだろう。もしかして上手くいっているのでは……と扉に耳をつけたりして結果を待った。
「ダメだった。何が悪かったんだ……」
「全部ですよっ!」
 リーズが思わずと言った調子で大声を出した。アッと気づいたがもう遅い。全員が口を閉じたがもう扉の前にいるのはバレてしまった。ファルが扉から顔を出した。
「何してんの?」
「あー、えっと」
 返答に詰まったエルルカが頭を掻く。リーズとルーは額を抑えてため息をついた。
 そこに意外な人物が現れた。マトリだ。
 しかも手土産付きで、物々しい態度を纏って廊下へ現れる。
「なんか捕まえたぞ」
 ファルは目を丸くしてマトリに捕まった男を見る。
 ロックだった。

 **

 マトリがロックを捕獲したのは寮の敷地内にある庭だったという。植え込みと木に隠れてこっそりと外壁を登ろうとしていたロックを見つけたマトリはすぐさまロックを捕まえたはいいが、どうやら先程話を聞いた例の男らしい。ならすぐに先生へ引き渡す前に少しファルの元へ行かせてやるのが人情というものだろう、という判断を踏まえてここまで来たという。
 そういうマトリたちはそこまで広くないファルの部屋へぎゅうぎゅうになって押しかけていた。ロックが何のためにここまで来たかを聞くためだ。そうして何故か全員に聞かせることになったロックは困惑しつつも虫の話をした。
「本当に?」
 エルルカたちの予想とは裏腹にファルの食いつきは良かった。顔を上げてロックの方を見る。
「うん、だいたい故郷のと同じだった」
 ソーンでは珍しいのでフィアマなども興味津々だった。だがエルルカはどちらかというと消極的だ。虫の居場所は学外だ。今のファルが観に行くには規則を破るしかない。
「でも今ってファルは謹慎中じゃん?」
 なるべくソフトな雰囲気でやんわりと選択肢を潰そうとしたエルルカだったが、なんにも考えていなさそうなフィアマには効かなかった。
「えー、でも行きたいですわ!」
 それに意外な人物も乗り気だった。
「上手いことやればやれっだろうが。芋引いてんじゃねえよ」
 マトリである。別に規則を破ろうがどうでもいい、と言った調子でやりたいかやりたくないかだけで決めさせる気満々だった。
 それに追随するかのように、ファコンも静かにうなずいた。
「あんたが行くっていうなら手伝おう」
 それはファルが行く、とさえ言えば決まるという意味だった。勝手に行くのを決めるほど身勝手ではない。あくまでもファルに選択を委ねる形に落ち着いたのだった。
 当の本人であるファルはじっと固まって悩んでいる。いや、悩んでいるフリだった。実際はどうしたいか既に腹の中は決まっていた。実際に言葉にするのが難しかったのだ。今までこんな勢いで規則を破ったことはない。優等生のつもりだった。それがソーンに来てからは狂いっぱなしだ。
「どうする?」
 ロックが心配そうな顔でファルの表情を伺っている。
 それでファルは決めた。ここまで心配してくれているのだ。人間はそれほど捨てたものじゃない。忘れていたことを思い出せたような爽快感があった。周りの人たちを見渡して、自分のやりたいことを口にする。
「う、うん。行くよ、行く。行きたい」
 ニヤッとマトリが口角をあげて笑った。
「そうと決まりゃあ話は早え。夜に出るなら夕食後にあたしの部屋に来い。共用スペース通らずに寮から出れる」
 全員がこくりとうなずいた。

 **

 寮の夕飯が済み、共用スペースで雑談している生徒たちや自室に籠もって明日の講義の準備をする者たちがいるなか、ファルたちはひっそりとロックを囲って隠しつつマトリの部屋に集合した。
 作戦は簡単で、消灯時間になったら月明かりを頼りに寮から抜け出し、そこからはロックの案内に従って虫のところまで案内してもらう、というだけだった。
 しかし意外と難しい。すでに消灯時間は過ぎているが、廊下からは足音が聞こえる。
 見回りがいるのだ。
 扉越しに誰が見回りをしているか確認するのは不可能だから、足音が去るのを待つ他ない。
 耳をそばだてて足音が角を曲がったことを確認し、ゆっくりとマトリが扉を開ける。もう真っ暗な廊下には、マトリの部屋の明かりが一筋こぼれ落ちた。
「おや、お手洗いかい?」
 そこへちょうど一人の先生が立っていた。
 ルイス・キャロル先生だ。
 マトリは息をのんで黙りこくる。しかしもう遅い。部屋の明かりが中にいるファルたちを照らし出し、見事に目論見が暴かれた。
 どうやって言い訳をしよう、と考える段階に入ったマトリだったが、意外にもルイスは怒らなかった。
「もしかして今から外へ?」
「まあ、そんなところです」
 もう姿を見られたし仕方ないといった様子のエルルカがマトリを押しのけてルイスの前へ出る。このタイミングで話をするならエルルカのほうが適任だ。
「ふーん、いいじゃないか。気をつけて出るんだよ」
 かなりあっさりした調子でルイスは言った。それから彼の後ろに隠れていた影がひょっこりと顔を出し、エルルカたちを見つめる。
「……あー、できればどこに行くか教えてくれないか?」
「えっと、迷宮近くの林です。といっても危なくはないですよ? ちょっと遠目で見るだけだし、見たらすぐに帰るつもりだったんです、許してください!」
「まあまあ、落ち着いて。交換条件といこう」
 そういってルイスは、自分の前に影――アリスを立たせた。
「この子がどうしたんです?」
「一緒に連れて行ってやってくれ。きっと楽しいだろう」
 そうしてくれれば助けてあげるから、とルイスは言った。
 すでに先程の見回りがもう一度巡回してくるところだったのだ。背後からこつこつという足音が聞こえ、エルルカたちは怯えた。幽霊とか妖怪の類ではなく、現実的な恐怖を感じて隠れる他なかった。もし見つかれば反省文では済まないかもしれない。それだけは嫌だった。
「こっちこっち、ミニジン先生に見つかったらみんな大変なことになるぞ」
 大変なことを恐れている様子はないルイスが、含み笑いでみんなを誘導する。。
 ルイスは慣れた手付きで寮内を案内し、さっさと裏口から全員を連れ出してしまった。

 **

 外に出てからはロックの案内だった。路地を何本か通り、裏へ裏へとつながる道へ進んでいった。途中から飽きたフィアマは結局ファコンに背負われていた。そうして一行はロックが見つけた虫たちのいる雑木林にたどり着いた。
 辺りはすっかり暗闇で、天枝で月明かりが遮られている部分は本当に真っ暗だ。幸いにも雑木林は明るかったが、これは運が良かったにすぎない。
 全員で見ていると、なんとなくそれぞれ座り込むことになった。
 雑木林の木々が闇の中で点滅しているようだった。
 一つ一つは弱々しい緑色の光だったが、ぶんぶんと唸るように一気にたくさん飛ぶと波のように見えた。 カーテンが風にたなびくように光の帯が揺らめき、そのたびにロックとファルはうっとりと虫たちを目で追った。
 そこには二人にとっての故郷があった。
 もう長らく見ていなかった景色。地元にいるときには大切であることさえ気づかなかった風景だ。いなくなって初めて気づく。
 他にも同じようなことがたくさんあるんじゃないかと思えてくる。
 しかしファルにとってそれはどうでも良かった。いま思い出せないことは存在しないのと変わらない。思い出せたときに考えればいい。
「ねえ、あっちのほうが見えやすいんじゃない?」
 エルルカがファルへそっと耳打ちする。意図が分かって辟易し、首を振ってエルルカの肩を捕まえた。
「みんなで見るの。それが良い」
 ルイスの同居人であるアリスはエストリフォから貰った飴を舐めながらぼんやりと光を目で追っている。ファコンはフィアマを背負いつつも満足そうに虫たちの織りなす光景を眺め、リーズとルーはなんだかんだでここまで付いてきて虫たちを見ている。そしてロックとファルは、ただただ昔を懐かしむだけでなく、今こうしてここまで連れてきくれた友人たちのことを感謝しつつ、淡く光る雑木林に見とれていた。


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